今日も明日も、マリリン日和

センター負傷棟から救出された雑種犬、マリリン。車いすを軽快に乗りこなすマリリンと、夫と、私。家族の日々の記録です。

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『アンジュール ―ある犬の物語』

ここ最近、とあるきっかけにより、さまざまな絵本を手に取るようになった。

私が好きなのは、大人の胸にもしんしんと迫ってくるような、そんな作品だ。

先日出会ったこちらの絵本には、夫とふたり、涙を尽くした。





アンジュール―ある犬の物語アンジュール―ある犬の物語
(1986/05)
ガブリエル バンサン

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物語は、野の道を疾走する車の窓から犬が投げ捨てられる場面で始まる。

ガブリエル・バンサンの息も吐かせぬデッサンが、野良になった犬の姿を追ってゆく。

この絵本に、言葉はひとつもない。

孤独をまとい、飼い主の姿を追い求め、次第に絶望してゆく犬の、その表情、その姿、その呼吸。

うなだれる犬の背に、震える指をそっと這わせては、深い悲しみに引き込まれる。

胸が激しくかき乱されながらも、ページを捲らずにはいられない。

デッサンのみによって語られる犬の物語に、私たちは心を奪われ、モノクロの濃淡の世界へ、幾度も身を投じた。

最後には、孤独を包み込む救いが用意されていて、つらい涙は、温かな光へと変わる。

素晴らしい、本当に素晴らしい一冊を抱きしめることのできた幸運に、心から感謝したい。





こうした物語に触れるたび、私たちの胸に込み上げるのは、やはりマリリンのことだ。

何年もともに生き、彼女にとっておそらく唯一の頼りで、最も愛する存在だったであろう飼い主から、真冬の厳しい地にその身を打ち捨てられ、どれほど戸惑い、怯え、悲しみ、絶望したことだろう。

感覚の失われた下半身を、必死に引きずりながら、小さな胸で、何を思っただろうか。

保護された当時の、彼女の荒みきった目の奥に映る苛酷な体験を思うたび、今でも私たちは、正気を失ってしまう。

彼女の身に起こったすべての出来事を、彼女の感じたすべての悲しみを、この胸に抱きしめたい。

過去も、いまも、そして未来も。

愛おしい、愛おしい、私たちの娘よ。










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RADWIMPSと言葉の力

冬の間、冬季うつ病…もとい、神経の反乱で、





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こんなんなってたマリリン。



長い不調を乗り越え、春の到来とともに、すこぶる元気になった。



身体の具合の良し悪しでこれほど人相ならぬ犬相が変わるものかと呆れるほど、これまたべらぼうな笑顔を見せている。





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「もう若返っちゃって、若返っちゃって、大変なんだったら!」



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「イヌもヒトも、健康は腸から♪ 乳酸菌CM、待ってます!」



先週の中頃に気温が下がり、見事に下痢が復活したけれど、その後また元気を取り戻してくれた。



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せっかく体調が良くなったところで、今度は父ちゃんが忙しくなってしまい、「ちょいと父ちゃん、アタシと仕事、どっちが大事なの!?」と詰め寄らんばかりの白いヤツ。

もう少し落ち着いて来たら、お出かけを楽しみ、たくさんの刺激に触れてもらいたい。

マリリンが元気でいてくれると、家の中にパッと大きな花が咲く。

うれしい!楽しい!とこの子に感じてもらえる時間が、ずっと続きますように。





さて、ここからは、前回の続きを。



伊坂さん目当てに購入した雑誌『パピルス』であるが、偶然にも、「RADWIMPS」のボーカル野田洋次郎さんが巻頭特集を飾っており、胸が躍った。



私がRADWIMPSを知ったのは、4年ほど前のこと。

『有心論』という楽曲に出会ったことがきっかけだった。

何気なく耳を傾けたその独特の音楽世界に、私は一驚した。

この世界観をつくり出すのは一体どんなバンドなのだろうかと調べてみると、4人の青年たちであった。



すごい人たちを知ってしまった!とばかりに興奮して夫をつかまえ、話して聞かせた。

すると、

「RADWIMPSなら、CDもライブDVDも持ってるよ」

平然と言う。

ちょっとちょっと、こんなすごいバンドがあるなら、早く教えてよ!

そう騒ぎ立てると、夫は笑いながら、RADWIMPSについて、メンバーの情報やバンドの変遷など、詳しく教えてくれた。

夫も、彼らの音楽に注目している人間のひとりで、野田さんのソロ活動含めた音楽世界に興味を抱いていたのであった。



以来、夫から借りたCDやDVDに没頭していった。

彼らの音楽には、感性と才能と痛みが混在している。

作詞作曲を手掛ける野田さんが、多方面の意味で才知に長けた人物であろうことは、容易に想像できた。

既存の枠を飛び越え、自由に展開してゆく音と言葉。

4人それぞれの演奏技術の巧みさ、美しさには、瞠目させられるものがある。



後に、野田さんの音楽の源泉にはMr.Childrenの存在があることを知り、得心がいった。

もちろん、Bank Bandも好きとのこと。

Bank Bandは、RADWIMPSの『有心論』をカバーしている。

こうして音楽はつながってゆくから、おもしろい。




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パピルスのインタビュー中、震災後の世の中の流れについての話の中で、野田さんはこんなことを言っている。



「夢と希望という言葉がふたつセットで誰かの口から発せられた時点で、僕は耐えられなくなったりするんです。

誰々に夢と希望を与えるためにとか、もうほんとにやめたほうがいい。

その発言に対して人は責任をとれないし」



あぁ、と声をあげた。

自らの音楽に全面的なリスクと責任を負っている人だからこその発言だろう。

RADWIMPSについて夫と話す中で、しばしば彼らの腹のくくり方に話題が及ぶ。

目指すものを追求する際、きわどい表現方法を選択することも少なくないバンドなので、当然、多方面から批判を受ける。

けれども、その一貫した思いは、ブレない。

あらゆる批判を想定し、その全責任を負う覚悟が、バンドや支えるスタッフの方々から伝わって来る。



「夢と希望を与える」というフレーズについては、私もこれまでたびたび考えることがあった。

何かを行うときに、これが誰かを救う材料となったら…、これで誰かが何かを感じてくれたら…と願うことは当然あるし、ことさら、さまざまな分野で活躍する方々においては、それを目指さずして何になる、というところだ。

その人の何かによって、実際に誰かが、夢や希望を得ることもあるのだろう。

しかしながら、このフレーズには、危うい種がいくつか内包されている。

胸中をよぎるのは、おそらく野田さんと同種のものだと思うが、それらをこうした場で記すには、少々ナイーブな問題があり…。

なので私は、言葉に対する責任について、少し考えてみたいと思う。



言葉が自分の口から離れた瞬間に完結し、受け取った相手の胸の内には知らん顔、といった状況は、さまざまなシーンで見受けられる。

自らの発する言葉に責任を持つということは、とても難しいし、厄介で面倒だ。

人間の数だけ価値観が絡むのだから、正解も終わりもない。

だからこそ、言葉の力を考える。

故意ならもちろんのこと、場合によっては何ら悪意なく発せられた言葉であっても、肉体的暴力と同等もしくはそれ以上の苦痛を他者に与えてしまう。

そこに必要なのは、やはり想像力なのだろう。



物事の考え方や感じ方は、その人の生い立ちや経験など、バックグラウンドが多分に投影されるものであることを踏まえれば、自分の価値観のみによって人の心を切りつけるような物言いは、当然避ける必要がある。

それはそうなのだけれど、問題は、“事前の想像”が行き届かなかった部分のこと。

価値観がこれだけ多様化している中では、発言前に相手に対する想像を尽くすにも限界がある。

また、自分の体験して来なかった苦しみや痛み、そこから派生する物事の感じ方においては、どうしても想像が乏しく鈍感になり、しばしば思ってもみなかったところで、人を傷つけてしまう。

そういったことから、まず事前の想像が第一なのは前提として、それと同様に大事なのは、言葉を発した後なのではないか、と私は思っている。



コミュニケーションを通して、これまで気づかなかったことを、私たちは知り、感じることができる。

自分の発言によって得られる相手のちょっとした反応や、自分の中で生まれた心の引っかかりなど、胸に残った何者かを無視せずに、後から振り返ってみる。

こちらはまるで悪気はなかったが、表情のわずかな翳り、微妙に揺れた空気、あれはもしかすると、先方を傷つけたのではないか、苦痛を与えたのではないか。

だとすれば、なぜそうした結果になってしまったのか。

“事後の想像”をめぐらせる。

すべてを感じることはできなくとも、他者の痛みを知るきっかけにはなってくれるのではないだろうか。

日常的にそれをするのがしんどいならば、時折だっていいと思う。

自らの発した言葉の力、その影響を、良いものも悪いものも、ふと立ち止まって考えてみる。

時に耐え難い罪悪感や羞恥心、後悔に襲われ、決して楽しい作業ばかりではないけれども、考えることで、想像力は着実に身についてくるものではないかと思っている。



言葉の力におそれを抱くこと。

それを忘れてはならないと、誰かを傷つけたかずかずの悔恨とともに、自戒する。



話が逸れてしまったが、パピルスのインタビューの続きを、最後に少し。

野田さんは、自分から生まれるものを形にする作業が追いつかず、そこにいつも焦りを感じているそうだ。

楽曲を制作し、やりきったなと思うと同時に、あれもこれも形にしていないというのが多すぎる。

人生の時間制限の中でやっている、という感覚がいつもあるのだ、と。

満足することがないというのは、素晴らしいことだと思う。

痛々しいほどの感性を研ぎ澄ませ、その才能をぶちまけていってほしいと、かげながら応援している。







公式youtubeから、3つ動画をお借りいたします。



まずは、『おしゃかしゃま』

夫いわく、すべてのパートのアンサンブルにおける総合力が素晴らしい、とのこと。

2本のギターがバラバラなことをやっているようでいて、それらが重なり合ったときの絶妙。

ベースのスラップ奏法のプリングを入れるタイミングの巧みさ。

ドラムのシンプルなリズムの中に凝縮された細かい仕事。

エフェクトの効果的な使用。

それらがこの楽曲のすごさでありRADWIMPSの魅力、だそうです。

私は、4人それぞれの持つ、卓越したリズム感に魅せられます。

メンバー全員にこれほどのリズム感が具わっているのは、非常に稀有なバンドではないかと思います。







『おしゃかしゃま』

カラスが増えたから殺します
さらに猿が増えたから減らします
でもパンダは減ったから増やします
けど人類は増えても増やします

僕らはいつでも神様に
願って拝んでても いつしか
そうさ僕ら人類が 神様に
気付いたらなってたの 何様なのさ

僕は見たことはないんだ
あちらこちらの絵画で見るんだ
さらに話で聞いてる神様は
どれもこれも人の形なんだ

偶然の一致か 運命の合致
はたまた 自分勝手スケッチ
あっち こっちそっちってどっち
一体どうなってるんダ・ヴィンチ

来世があったって 仮に無くたって だから何だって言うんだ
生まれ変わったって 変わらなくたって んなこたぁどうだっていいんだ
人はいつだって 全て好き勝手
なんとかって言った連鎖の上に立ったって
なおもてっぺんがあるんだって言い張んだよ

もしもこの僕が神様ならば 全てを決めてもいいなら
7日間で世界を作るような 真似はきっと僕はしないだろう
きっともっとちゃんと時間をかけて また きちっとした計画を立てて
だって焦って急いで作ったせいで 切って張って 作って壊して

増やして減らして 減らしたら増やして
なして どうして ってなんでかって?
「?」出したフリして 分かってるくせして
「話して 聞かせて なんでなんで」

だって馬鹿なんだって人類なんて
そりゃそうなんだって分かってるって
だから1、2、3で滅んじゃえばいいんだって
だって なんてったって

馬鹿は死なないと治らない なら考えたって仕方がない
さぁ来世のおいらに期待大 でも待って じゃあ現世はどうすんだい
さぁ無茶しよう そんで苦茶しよう 2つ合わさって無茶苦茶にしよう
さぁ有耶しよう そんで無耶しよう 2つ合わさって有耶無耶にしよう

だからなんだって ダメになったって 先があんだって言うんだ
なぜになんだって ポイしちゃっといて 次はなんだって言うんだ
だがしかしbut けどけれどyet 何をどうやっていいんだ
何を言ったって 何をやったって ダメだダメだって言うんだ

ならば どうすればいい? どこに向かえばいい
いてもいなくなっても いけないならば どこに

来世があったって 仮に無くたって だから何だって言うんだ
生まれ変わったって 変わらなくたって んなこたぁどうだっていいんだ
天国行ったって 地獄だったって だからなんだって言うんだ
上じゃなくたって 下じゃなくたって 横にだって道はあんだ












次は、『狭心症』。

以下のような思いを絞り出すようにして、この楽曲が作られたそうです。

美味しいものを食べたり、大事な誰かと過ごしたり、そうした幸せな時間のかげでは必ず、どこかの誰かが苦しみ、絶望に陥っているのだということを、私たちは知らなければならない。

あらゆる命、あらゆる搾取の上に、生かされているのだと。

“世の中”や“世界”というものを自分から切り離して、一歩ひいた所から語る人も多いけれど、それは違う。

常に当事者である自分を意識しなければ、いつまでたっても悲しみはなくならない。



歌詞中に登場します、『イワンのばか』。

初めてこの楽曲を聴いたときに、あぁ、と記憶が引っ張り出され、トルストイのそれを改めて読み直しました。

かつてページを捲った時とはまた異なる印象が得られ、新たな感慨を覚えました。

自分や自分の家族、自分の愛するものが良ければそれでいいという、そういう意識の高まりは、あっという間にその大事なものさえも奪い去ってゆく。

生活に追われ、余裕のない現代の私たちだからこそ、都合の悪いものを無視し、切り捨てて前進するのではなく、時に立ち止まり、振り返って、じっと考えてみることが必要なのだろうと思います。



※ 公式サイトに掲載されているこのMVは辛い映像が含まれておりますので、ご自身のご判断でお願いいたします。







『狭心症』

この眼が二つだけでよかったなぁ
世界の悲しみがすべて見えてしまったら
僕は到底生きていけはしないから
うまいことできた世界だ いやになるほど

それなのに人はなに血迷ったか
わざわざ広いこの世界の至る所に
ご丁寧に眼付けて あーだこーだと
僕は僕の悲しみで 精一杯なの

見ちゃいけないなら 僕がいけないなら
針と糸すぐ ほら 持ってきてよ
塞いでしまうから 縫ってしまうから
最後にまとめて全部見せてよ

1が1であるために今日も僕はね
100から99も奪って生きてるんだと
んなの教えてと頼んだ覚えはないのに
いいから ほら もう黙ってて イワンのバカ

世界から見れば今のあなたは
どれだけ かくかくしかじかと言われましても
下には下がいるって 喜びゃいいの?
僕は僕の悲しみも 憂いちゃいかんとさ

泣いちゃいけないなら 僕がいけないなら
涙腺など とうに切っといてよ
生まれた時にさ へその緒の前にさ
ついでに口 横に裂いといてよ
したら辛い時や 悲しい時も
何事もないように笑えるよ
そうでもしないと とてもじゃないけど
僕は僕をやってられないんだよ

今日もあちらこちらで 命は消える
はずなのにどこを歩けど 落ちてなどいないなぁ
綺麗好きにも程があるよ ほんとさ
なんて素晴らしい世界だ ってなんでなんだか

そりゃ 色々忙しいとは思うけど
主よ 雲の上で何をボケっと突っ立ってるのさ
子のオイタ叱るのが務めなんでしょ
勇気を持って 拳を出して
好きなようにやっちゃって

見なきゃいけないなら 僕がいけないなら
まぶたの裏にでも貼っといてよ
生まれた時にさ へその緒の前にさ
そうまでして逆らいたいなら
僕がうれしい時も 気持ちいい時も
瞬くたび突き落としてよ
だってじゃないとさ 忘れてしまうから
僕の眼は二つしかないから

この耳が二つだけでよかったなぁ
世界の叫び声がすべて 聴こえてしまったら
僕は到底 息ができないから
僕は僕を幸せにする機能で

いっぱい いっぱい いっぱい いっぱい
いっぱい いっぱい いっぱい いっぱい

見ちゃいけないなら 聴いちゃいけないなら
僕らの下にも次の命が
宿った時には へその緒の前にさ
そのすべての世界の入口を
閉じてあげるから 塞いだげるから
僕が君を守ってあげるから
逃がしたげるから その瞳から
涙が零れることはないから










最後は、先月、震災から3年の日に生まれたばかりの、『カイコ』。

新しい楽曲でまだ正確なものが分からないので、歌詞は書きません。








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許すということ

雑誌『ダ・ヴィンチ』が、伊坂幸太郎特集で賑わっている。

新刊の刊行と『オー!ファーザー』の映画化記念で組まれたものらしい。

思わず「ひゃ~!!」と声をあげてしまったのは、平野啓一郎さんとの対談が掲載されていたからだ。



近年、平野さんが提唱する「分人」という考え方には、深く共感し、また私自身とても救われてきた部分がある。

混沌とした現代の中で、文学に何ができるかを、真摯に考え続けている人だ。

その平野さんと伊坂さんが、小説について、家族について、今の思いを語っていた。



デビューからして鮮烈であった平野さんだが、彼は、早くにお父様を亡くされており、たびたび父親という存在への強い思いを覗かせる。

今回の対談でも、そういった話が出ていた。

父親との距離感をどう埋めて、どう埋めずに、文学へと導くか。

家族を持ち、自身も父親になった今、作品とどのように向き合っているか。

その一端を拝見するだけで、胸の中にさまざまな思いがめぐってゆく。

エンタメ作家と純文学作家の交わりは、楽しくて心地良い刺激を残してくれた。



で。

それとは別に、伊坂幸太郎さんの読み切りが読みたくて、雑誌『パピルス』を買った。




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ショートストーリー『メイクアップ』は、化粧品会社に勤める“わたし”が、かつてのいじめっこと再会する話だ。

相手は自分に気づいておらず、現在の仕事の立場上、あの頃の復讐のチャンスが目前にある。

そのとき“わたし”は、どうするだろうか。



伊坂さんのユーモアあふれる言葉が散りばめられたその掌編を読みながら、以前書いた「自分を問われる」の記事を思い返していた。

あのとき私は、彼女に手を貸すことを躊躇してしまった自分を恥じ、マリリンの力を借りながら立ち上がることができた。

ただ、この場合、伊坂さんの物語における“わたし”の事情とは、少々異なる。

なぜなら、例の記事に登場した彼女は、いじめを行ってきたというわけではないからだ。

何と言うか、実に厄介な人物であることには違いなく、彼女の言動にずいぶん私は苦しみ、さらに決定的となる出来事が起こり、疎遠にはなっていたのだけれど、しかし、まぁ総じてそういう人物であった、というだけだ。

永年にわたって、また周囲を巻き込んで、彼女が陰湿ないじめを繰り返し行って来たであるとか、そういった事実はない。

つまり、いじめの加害者とは意味合いが異なるがために、一度はためらいこそすれ、最終的に私は、気持ち良く彼女のために動くことができたのだと思う。

これがもしも、小学生の頃、じっくりと止むことなく、まるでそれが唯一の仕事であるかのように、私をいじめ抜いた彼女だったら。

自分に矛先が向かぬための防御の手段であったとはとても考えられないほどに、嬉々として加担していた、彼女の取り巻きの誰かだったら。

どうだっただろうか――。

おそらく、困難に陥った彼女らに手を貸す場面が訪れたとき、私にはできないと思う。

それは、この先40代になろうとも、50代、60代になろうとも、多分ずっと。



夫と出会い、マリリンと出会い、今こうして穏やかな日々があるのだから、もうあの頃のことなんて全部許しちゃう。

そんな風に崇高な精神を持つことができたら、どれほど素晴らしいだろうかと思う。

そうできない自分を発見するたび、我が身がひどく忌々しい存在に思われ、いっそのこと、この世界から放逐してしまいたいという思いに駆られさえする。

けれど、内に潜んだ弱さや愚かさを恥じ入り、情けなさに身悶えしながらも、それでもなお、当時のことを丸ごと許すという境地に至るのは、とても難しい。

なぜなら、いじめの記憶は、“それを受けた当時”で終了するものではなく、“今”に至っても、根強く影響を与え続けるものだからだ。



大人ほどの防御の術を持たぬ、むき出しの柔らかな子どもの心に刻まれた傷は、想像よりも深いところに達しやすい。

それは、表面上きれいに修復されているように見え、実際本人もそのように思っていたとしても、さまざまな機会にひょっこり顔を出し、何年、何十年の時が経ったとは思えぬ生々しさで、痛みを再現してみせる。

その人の性格形成にも関与すれば、後々の対人関係にも大きな影響を及ぼし、至るところで心身に不具合を起こしてしまうのだ。

人によっては、生涯にわたって苦しみ続けることになるだろう。

一方で、加害者側の多くが、犯した罪を忘れ、いかにも清潔な子ども時代でした、とばかりに当時を懐かしんだりするというのだから、やりきれない。




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「あたしの過去も消えないけど、何とかここまで生きてきました」




精神を引きちぎられるようないじめを受けた人間が、世の中にはいる。

過去を乗り越え、むしろ逆にそれをバネにして、成功をおさめるような人もいるけれど、それはおそらく、ごく一部の方々であろう。

記憶をきれいさっぱり彼方へ投げ捨て、体内にその欠片も残っていないという人間は、そう多くはないのではなかろうか。

過去がもたらす影響に苦しみ、その傷を何とかなだめながら、地道に今を生きてゆかんとする人たちに、穏やかな瞬間が少しでも多く宿ることを願うばかりだ。



人間が人間を許す、という観念は、私にとって生きる上でのテーマのひとつであり、いじめのそれから始まって、苛酷な責苦を負う方々に対する思いへと拡がってゆく。

それについては、機会が訪れたら、今後の記事に綴りたいと思う。




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「あたしゃ、元気だよ! でも父ちゃん母ちゃんが油断したら、すぐさま具合悪くなってやろうと思います」



雑誌『パピルス』については、もう少し書きたいことがあるので、次回はこの続きを。



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『ガソリン生活』

みなさま、こんにちは~♪

前回記事の拍手欄が変で昨日コメントができなかった、というお言葉を何人かの方にいただきました。

最近、FC2の拍手の不具合が多いようで・・・。

大変ご迷惑をおかけいたしました。



読書や想像力について思いをめぐらせていただきました方、本当にありがとうございます。

「読書は紙に触れながらでないと吸収できない。」

「デジタルは自分にとっては読書じゃない。」

とおっしゃる方々もいらっしゃり、深く共感いたします。

デジタルと紙は、まったく別物と思っております。

パソコンを使ってブログをやっている身でアレですが・・・。

五感を使った読書は、やっぱり紙じゃないとね





さてさて、今日は、前回書きました、伊坂幸太郎さんの『ガソリン生活』について、お話させてくださいませ。



ガソリン生活ガソリン生活
(2013/03/07)
伊坂 幸太郎

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この小説は、緑のデミオである「僕」が、自分を所有する望月家に巻き起こる騒動を語っています。

車同士はいつも自由におしゃべりをしており(自転車が発する言語は意味不明らしい 笑)、人間の言葉も理解できる。

しかし、車の声は、人間には届きません。

人間は、まさか車が感情を持ち、あれやこれやおしゃべりをしているなどとは、知りもしないのです。

それぞれの車は、その持ち主に肩入れする傾向があり、持ち主のことが大好きです。(動物みたいですね

なので、持ち主の身に危険が及ぶと、あたふたと慌て、なんとか助けようとします。

しかし、悲しいかな、車ですから、人間によってエンジンをかけられなければ動くこともできず、また、どんなに叫んでも、人間には届きません。



この小説のおもしろさは、何と言っても、車の感情を語る部分や、車目線の会話。

思わず、「へぇ~!こんなことを思っていたのか!」なんて、その辺を走る車が急に愛おしくなります。

対向車同士で通り過ぎる際に一言ことばを交わしたり、駐車場で居合わせた車同士で話し込んだり、どうやら彼らは常におしゃべりをしているようです。

宅急便トラックの清々しい仕事ぶりに感嘆し、電車にあこがれ、自転車とは分かり合えないと思っている。

常に持ち主のことに気を配り、風を感じて走ることのできる喜びを味わい、そして、いつか必ずやって来る廃車という終わりに、怯えています。

それぞれの車に個性があり、たとえば警察車両は、誇らしげに任務を遂行するし、たとえばタクシーは、妙にプライドが高く、「君たち自家用車と違って我々は常に走っているからね」が口癖だと言います。

興奮すると、ワイパーが激しく動き、びっくりすると、開いたボンネットが塞がらなくなる。(←そうなる気がするという、車自身のイメージ)

駐車場では、まっすぐにきれいに停めてもらえないと、持ち主が戻るまでずっと居心地が悪い。



そんな車たちの個性あふれるやりとりに、思わずクスクスと笑いがこぼれるのです。



運転における車たちの気持ちという部分で、一番印象に残ったのは、クラクションのお話です。

彼らは、自分たちの一部でありながら、どうにもその機能が好きになれません。

下品で原始的なあのような音が自分から発せられるなんて・・・!

ある日、駐車場に停まった車同士で話し合います。

そもそもクラクションは危険を知らせるためだったり、警笛鳴らせの標識の場所で鳴らすためだったり、それらが役割であるはずだけれど、現実は、違う。

飛び出してきた子どもにクラクションを鳴らしたところで、びっくりして逆に固まってしまうこともある。

危険が迫ったとき、クラクションを鳴らす前にまずやらなければならないのは、ブレーキを踏むことだ。

警笛鳴らせの標識もあるが、その指示に従って鳴らしている車など見たことがない。

となると、普段、クラクションが活躍するのは、前に停まっている車が信号が青になっても発進しないときか、近くの車の運転手が気に入らない、というときがほとんど。

つまり、何かを知らせるためではなく、運転手の怒りや苛立ちを表明するために使われているんだ、と車たちは思っています。

人間の感情表現のために、現代のクラクションは存在している、と。



そして、駐車場の車たちは、自分なりに、クラクションを解釈しようとします。

このようなクラクションがなぜついているのかと言えば、もしかしたら必要になる時があるかもしれないから、と保留しているんじゃないか。

スピードメーターは200キロ以上まで目盛りがあるし、ステレオの音量だって、最大にしたらトンデモナイことになる。

でも、もしかしたら必要になるかもしれないから、車にはそれが用意されているのだ。

そして、車たちは言います。

「人間の愚かさの一つだな」




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こうした車目線のやりとりで言葉を紡ぎながら、ある大きな事件の真相に迫ってゆくのです。

伊坂さんのことなので、ファンタジックな小説の中にも、きちんと(?)事件があり、ハラハラさせる展開も盛り込まれております。

そして、何と言っても、そこかしこに散りばめられた、ハッとさせられるテーマや、言葉の数々。

中でも好みは、望月家の末っ子である亨の言葉です。



亨は、小学生だけれど、大変に賢く、思慮深い。

そして、そういう子は、当然の如く、いじめを受けています。

しかし、亨はそれを自然の摂理であるように受け止めており、その彼から発せられる言葉は、時にぐさりと心をえぐり、時に軽快なユーモアでなごませます。

大人たちが、「きみは小学生なのに何と言うか・・・」と呆れると、亨はいつでも、こう返すのです。

「生意気でしょ。だから、ちゃんと学校では苛められているんだから。安心して。」

彼がどんな風に生きているのか、その生きづらさを思うと、強くて悲しいマイノリティーに、思わず泣き笑いの自分がいました。



亨のほかに、言葉が印象的だったお方が、もう1人。

いや、もう1台。

望月家のお隣さんである細見家が所有するカローラの「ザッパ」です。



ザッパは、メンテナンスにメンテナンスを重ね、いくども車検を乗り越えてきた、古いカローラGT。

なぜザッパという名前がついているかと言うと。

小学校の校長先生である細見氏が、フランク・ザッパの大ファンで、カーステレオにはザッパの楽曲ばかり入っており、極めつきはナンバープレートまで「38」であることから、車たちの間では、彼をザッパと呼んでいるのです。



フランク・ザッパは、アメリカの偉大なロック・ミュージシャン。

細見氏は、ことあるたびに、児童の前で、「フランク・ザッパを聴きなさい。」と言うんだとか。

どんな悩みに対しても、「フランク・ザッパを聴きなさい。」で終了。

フランク・ザッパに傾倒した細見氏に傾倒しているザッパは、ほかの車たちにたくさんのことを教えてくれます。



フランク・ザッパの言葉で私が一番気に入ったのは、「人間の思惑の99パーセントは失敗する」というもの。

細見氏は、この言葉を借りて、学校で児童たちに言うそうです。

「いいかい、人間のやることの99パーセントは失敗なんだ。だから、何も恥ずかしがることはないぞ。失敗している状態が普通なんだからな」と。

ネットで好き勝手に言えるこの時代、たったひとつの失敗をこてんぱんに叩き、二度と立ち上がれないように集中攻撃する、そんな傾向がどんどん強まっている気がします。

何様だか知らないけれど、自分のことは棚に上げて、他人の失敗を絶対に許さない。

何のリスクもない安全地帯にいながら、顔の見えない“仲間たち”と一緒にターゲットを断罪し、正義がどうのと平気でうそぶく。

そんないじめ体質の世の中にうんざりしていたので、この言葉は心地良く胸に響きました。





『ガソリン生活』を読んでからというもの、運転中に目に映る景色が変わりました。

何より、今まで何とも思っていなかった我が家の車に愛着がわき、運転がはるかに楽しくなったのです。



興味がないため車種など知りもしなかった私が、今では信号待ちなどで、周囲の車を眺めては、「あ、あれがカローラかぁ~! ムーヴにアルト、ミニクーパー、横にいる大きい車はエルグランドかな? あ、こんなところにデミオはっけ~ん!」などと大喜びしているのだから、我ながら笑ってしまいます。

少々急ハンドルになったときは、「わわ、今痛かったでしょ!」と声をかけ、駐車場で線に対してきっちり平行に停められなかったときには、「ありゃ、居心地悪いよね、ごめんね~。」と謝る。

家に着いたときには、「今日もありがとう。」と車体を撫で撫でしてお礼を言います。



縁あって我が家に来てくれた車の感情を、あれやこれや想像するようになりました。

父ちゃんの滑らかな運転では気持ち良く走っているのが分かるし、私がハンドルを握った瞬間に、ある種の緊張が走り、「ヒッ!」と身体を強張らせるその息づかいが伝わってくるのです




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「あたしも愛車持ってるよ!」




小説のおかげで、車に乗ること自体が楽しくなると、ずっと上達しなかった運転も、少しずつ自信がつくようになってまいりました。(まだひとりでは運転できませんが。)

また、前回書きましたように、ストラバイトの悪化により鬱々としかけた気持ちを、クスッと笑みがこぼれるユーモアでそっと持ち上げてもらい、精神的にとても救われました。

こうして、人生の良き友となってくれるから、読書ってやめられません。





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「あたし、うちのワゴンRと話せるんだよ。 あたしがこのうちに来たときにね、シェルターのお届け車から、あたしの取り扱い説明を引き継いだんだって。」


うんうん、きっと、そうだよね。

マリリンが来た頃には、すでにワゴンRは我が家の一員だったもんね。

父ちゃん母ちゃんだけじゃないんだ、マリリンをドキドキして迎えたのは



緊張で強張り、いつも無表情だったマリリン。

何のトラウマか知らないけれど、スズメ一羽、木の葉一枚に震え上がり、まったくお散歩ができなかったマリリン。

すぐパニックになって、大絶叫をあげ、暴れまくったマリリン。

そんな彼女が、ゆっくりと成長し、この家に馴染み、少しずつ心を開いてくれるようになったこの3年間を、ワゴンRは、ずっと見守ってきてくれたのかもしれません。




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「あたしがモジモジしてるとね、いつもワゴンRは言ってくれたの。 大丈夫、きっとうまくいくよって。」


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小説に救われる

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突然ですが。

作家・伊坂幸太郎さんは、「小説というのは、理不尽なことに悲しんでいる人に寄り添うもの」だと言います。

いえ、正確には、それは伊集院静さんが伊坂さんに話した言葉であり、それに感銘を受け、インタビューなどで「小説とは?」と聞かれるたび、「伊集院静さんの言葉でこういうのがあって・・・」と話していたところ、ある日、伊集院さん本人から電話があり、「もういいから。律儀に私の名前を出さなくていいから。あなたの言葉にしちゃってよ。」と言われたという、なんとも伊坂さんらしいエピソードがそこにはあるわけですが。



小説について、彼はこんな風に話しています。



映画や音楽は大勢の人を一瞬でバーンと興奮させたりできますが、小説は読者が本屋さんでひとりで選び、ひとりで読むものですよね。

例えば、父親に説教されても聞く耳持たないけど、本に同じようなことが書いてあったら「ああ、そうかもね」と思えることがあります。

それは自分で選んだ本だから、押しつけられてる感じがしないから。

自分で選んで、自分で読んで、それが本に書いてあったことすら忘れて、自分の感覚として残って染み込んでいく。

読書とは人の内面に色を塗っていく作業だと思うんです。

小説を読めば読むほど内面にたくさんの色が塗られて、それで悶々とすることもあるんだろうけど・・・。

僕自身も、そうしてたくさんの色を塗られてきたと思っています。




伊坂さんのそんな考え方に、私はまるごと共感しています。

内面に色を塗っていくことで、初めて想像力が生まれると思うのです。

「想像力」という言葉は、私にとって、幼い頃から、大きなテーマでした。



想像力があれば、互いを認め合うことができる。

違う価値観、考え方、個性を、分かり合う必要はありません。

認め合うことができれば、それでいい。

互いを認め合えたなら、いじめが減り、犯罪が減り、争いごとが減り、世の中はもっとやさしくなるだろう、と思います。

そんな青臭いことを、と笑われてしまうかもしれませんが、私はずっとそれを信じてきました。

伊坂さんは、エッセイ『3652』で、何度も想像力という言葉を使っております。



3652―伊坂幸太郎エッセイ集3652―伊坂幸太郎エッセイ集
(2010/12)
伊坂 幸太郎

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この本の中に、大江健三郎さんが、「世界中の人間が想像力を働かせれば、核兵器なんて一瞬にしてこの世から消える」とおっしゃっていたというくだりがありますが、まさに私も、そういった考えを抱いてきました。



互いの個性や価値観を認め合うために必要な、想像力。

映画や音楽、絵画など、想像力を生み出し、内面に色を塗ってくれるものは、たくさんあります。

日々の生活の中、人と人とのやりとり、人と動物とのやりとりなど、ちょっとした場面で立ち止まり、思いをめぐらせることも、想像力を養うきっかけになると思います。

そして、中でも、読書が養ってくれるそれは、ほかでは得難いものだと思っております。



本を手に取り、紙の感触を確かめながら、一枚一枚めくり、たくさんの人の感情を想像し、ひとつひとつの言葉の裏側にある思いを想像し、行間を味わう。

何も、現代文の教科書に登場するような古くからの純文学じゃなきゃいけない、なんてことはまったくないと思います。(もちろん、純文学は想像力の宝庫ではありますが)

SFやファンタジーだっていい。

話題になっている作家の本や、映画化されたことがきっかけで読む小説もいい。

エンタメ街道まっしぐらの推理小説や、こてこての恋愛小説もいい。

エッセイやノンフィクションもいい。

漫画もいい。

絵本だって、読書です。

紙の匂いを嗅ぎながら、その肌触りを感じ、五感を使ってする読書であれば、その中身は何であれ、すべてが想像力につながると、私個人としては思っております。



五感を使った読書体験は、ぜひぜひ、幼い頃から味わってもらいたいな、と願います。

大人による絵本の読み聞かせから始まって。

まだ理解できない内容であっても、子どもは、わからないなりに、しっかりと受け取ります。

そしていつか、ハッとわかるときが必ず来るはずです。

幼い頃読んだ本に書かれた思いを、長い時を経て受け取ったときの深い感慨は、私自身、忘れることができません。

本を読むことは、暗闇に迷い込んだとき、必ず光となってくれます。

そっと静かに寄り添ってくれる、人生の友となるでしょう。





少し前に読みました伊坂さんの『ガソリン生活』にも、どれほど助けてもらったことか分かりません。
(この小説については、次回詳しく書かせていただきたいと思います。)

車が語り手という、至って軽快な小説で、何か教えよう、感動させよう、ということはありません。

けれど、私にとっては、価値観を変えるきっかけとなってくれた小説です。

そこかしこに散りばめられたユーモアに泣き笑い、読み終わる頃には、我が家の車に向かって、親しげに話しかけている自分がおりました。(コワッ

それが、伊坂さんの力であると思います。




この本を読んだのは、マリリンのストラバイトが悪化の一途をたどっているときでした。

病院の先生には、このままだとかなり深刻な状態になってしまう、薬を使った治療等を検討せざるを得ない段階に来ているのではないか、といったことをやんわりと言われ、それでも首を振り、納得できるまで調べたい、とお願いしていた時期です。

そうは言ってみたものの、調べても調べてもこたえが出ず、目の前のこの子の症状を改善させることのできない焦り。

積極的な治療を拒んだ自分たちが悪化させてしまっているのだ、という苦しい思い。

2時間置きに排泄をさせ、病気の勉強をし、水を飲ませ、マッサージをする。

けれど、何をやっても悪化していくばかりで。

全力でがんばらなければならないのに、頻繁に頭痛とめまいが顔を出し、まともなお世話もできず、また泣いて、自分に苛立つ。

ストラバイトと向き合う毎日は、精神を縮めてゆきました。



そんなとき、唯一救いとなったのは、夜のわずかな時間、本の世界に入ること。

小説がそっと寄り添うものだということを、強く感じました。





伊坂さんの本に限らず、私は文章に味わいのある作品が好きです。

ストーリーの衝撃度とか、あっと驚く結末とか、それほど興味がありません。

それよりも、そのストーリーをどんな文章で書くのか、というところに興味があります。

伊坂さんは、暴力も多いし、やりきれない事件も多い。

また、最近では国家論が背景に漂うものも多く存在します。(ご本人の主張を述べる類いのものではありませんが。)

内容的にはハードであるにも関わらず、彼は、悲壮感に満ちたり、陰鬱さに支配されたりするような書き方をしません。

常にユーモアがあり、その一文一文に、味わいがあります。

思わずクスッとなり、いったん本を閉じてその言葉を口で転がしてみたくなる、そんな文章が大好きです。

(伊坂さんの文章については、かなり前の記事ですが、こちらでも書いております。)




伊坂さん自身、こんなことを話しています。



「読み進めることが快楽である」と奥泉光さんが言っていましたけども、小説ってそうだと思うんですよ。

小説の喜びはあらすじではない。

でも、あらすじを楽しむ人はけっこう多いですよね。

僕はストーリー展開には実はあまり興味がなくて、文章を読む喜びがある、読んでること自体が楽しい小説が好きなんですよ。

だから、そういうものを自分でも書きたいなあ、と思って。

例えば『あるキング』はストーリー的にはまったく何もない。

あえてそういうのを書いてみたんですけど、たぶん面白くないと感じる読者も当然いるわけで、そういう部分は悩んじゃいますね。




最近の作品はおもしろくないと言われることも多いようで、世間から求められるものと、自分が書きたいものとのギャップは、難しいものがあるのだろうな、と思います。

文章のおもしろさ、また読者に考えさせるようなテーマという意味では、どんどん進化していると思うのですが・・・。

伊坂さんの問題提起は、さらりと軽快に書かれているようでいて、とても難しいです。

これまで疑問に思ってもいなかったことにハッとさせられ、あれやこれや、考えを巡らせずにはいられません。

今回の『ガソリン生活』も、機関車トーマスのようなかわいらしさを伴いながら、ところどころに盛り込まれた各種のテーマは、う~んとうなってしまいます。

とは言え、決して押しつけがましくない。

絶妙だな、と思います。




あるインタビューの中での、伊坂さんのお話をひとつ。



僕はけっこう諦念的なんです。

「だってそうなってるからしょうがないじゃん」ってことが世の中多いじゃないですか。

その「しょうがない」を認める人と認めない人がいて、僕はどうしても認めちゃうんですよ。

認めちゃった上で、でも何とか人間は楽しい生活が送れるのではないかって考えるんですよ。




これは、うちの父ちゃんの考え方とよく似ているんです。

私は、なかなかそうなれません。

何か起こったときに、こうなっちゃったんだから、こういう仕組みなんだから、仕方がない、ではなく、ついつい、なんでこうなっちゃうの・・・とグチグチします。

伊坂さんのような、良い意味での諦め、そして少しでもプラスに持っていこうとする思考は、私の目指すところであります。

なかなか難しいですが・・・。

だからこそ、自分にないものを小説に求め、そこから何かを得ようとしているのかもしれません。






さてさて、マリリンは、元気にしておりますよ~♪

すぐ疲れてへたってしまうのは相変わらずですが、穏やかに過ごしております。



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「あたしのブログなのに、今頃あたしの登場なの。」


ごめん、ごめん

・・・って、あれ?

どーでもいいけど、そのおてては何のつもり?



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「揉み手よ、揉み手。 こうやってご機嫌取りしながら寝れば、夢の中で誰かがおやつくれるかもしれないでしょ。 その可能性に賭けてるの。」



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「あ~ちょいとそこのお方、やさしそうな人だねぇ。 あたしにおやつくれたら、素敵な人生が待ってるよ。。。むにゃむにゃ。。。」


夢の中でも、幸せを感じてくれているといいな♪




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「そうそう、あのね、母ちゃんが想像力の話をしたけどね、まさにそれを考える出来事があったわけ。 あたしゃ、悲しかったんだよ。 あとで聞いてくれるかい。」


そうなんです、この記事の下書きをあれやこれや書いている時に、ちょっぴり残念なことがありました。

また近いうちに書きますので、マリ坊の話を聞いてやってくださいませ。



長い記事を読んでいただき、ありがとうございました

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