今日も明日も、マリリン日和

センター負傷棟から救出された雑種犬、マリリン。車いすを軽快に乗りこなすマリリンと、夫と、私。家族の日々の記録です。

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受容

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マリリンの体調不良が、だらだらと続いている。

穏やかに過ごす日もあるし、調子を見て散歩にも行くのだが、それでも以前とは明らかに違っていて、全体的な不調ぶりが、ぴたりとくっつき、離れない。

ここ数か月、いつもどこか元気がなく、だるそうだ。

うつむいて、落ち込んで、そんなにならなくてもいいじゃないかと途方にくれるほど頭を垂れ、部屋の中をゆらゆら彷徨い歩いている。

体調が悪ければ当然、臆病にも拍車がかかる。

あらゆる音だの気配だのに震えあがり、熟睡できないらしい。

彼女の身体的、精神的な症状に合わせ、ますますマリリンに付きっきりの毎日だ。

調子の悪そうな、その気配を感じるだけで、頭は働かず、何も手につかなくなり、ここ最近、やるべきことができていない。

でも、それでいい。

彼女のつらさを、少しでもこちらに分けてほしい。



いくつか症状がある中で、不安にならざるを得ないのは、下痢だ。

日に何度も、下痢をする。

そのためか、少し痩せてしまった。



彼女は、これまで不思議なほどに腸の強い子であった。

胃腸炎は頻繁に彼女を苦しめるものの、ほとんどの症状が胃のほうに出ているようで、ヒンヒン苦痛にうめきながら、あらま、というような、ころりと良いうんちをしたりする。

要するに、下痢という症状は、この子の身体にまったく馴染んでこなかったのだ。

それが、12月からこの調子。

原因は、わからない。

整腸剤をはじめ、腸に良いとされることはさまざまに試してみたが、イマイチ反応はない。

まるで改善の兆しを見せないため、これは大変な病気なのではないかと、病院に駆け込んだ。

いつもの先生ではなく、どれだけ待ってもいいので!と院長を指名する。

院長は、エコーから血液検査に至るまで、実に丁寧に診察してくださり、長い時間をとって私たちの話に耳を傾けてくれた。

検査結果として浮かび上がってきたのは、肝臓の数値が前回の血液検査に比べ、大幅に悪くなっていることだった。

しかし、この数値が、直接的に腸に影響を及ぼしているとは、考えにくいらしい。

つまりは、下痢以外の症状のほうに、肝臓が関与していることはもしかするとあるかもしれないが、下痢の要因にはなり得ないそうだ。

肝臓の対策はこれまでも行ってきたが、今回の数値の結果、サプリを試してみることになった。

サプリで効果がなければ、熟慮の上、投薬の可能性もある。

ひとまず、肝臓については、院長との相談により、できることを続けていくことにした。



で、下痢のほうである。

これには、院長も頭を抱えていた。

検査結果からは、下痢を引き起こすような要因が、まるで見当たらないのだ。

さまざまな可能性を排除していった結果、最後に残ったのは、私たちがもっともおそれていた、神経の問題であった。

やはり怪我で脊髄を損傷した犬が、冬になると神経系に異常が出て、春になるまで下痢が止まらない、といった例があるそうだ。

以前から、神経については、院長から言われていた。

この子の場合、これから年とともに、神経がさまざまな形で悪さをすることが出てくるかもしれない、と。

彼女は下半身へつながる神経が断裂されており、脳からの指令は届かないが、当然、身体のすべての神経がだめになっているわけではない。

その残った神経が、おそらくは健常犬の神経と違い不完全な状態に置かれているからだと思うが、とりわけ寒くなると、何かしら身体に不具合を起こすらしい。

去年の冬は下痢をした記憶はないのだが、やはり加齢も影響するということか。

神経は、てんかん発作と同様に、ほとんど神の領域であるから、私たちには太刀打ちできない。



どうにもならぬものを前にして、おろおろもするのだが、一方では、根拠のない漠然とした“大丈夫”があり、また受容への覚悟もある。

神経がどんな悪さをして、どんな風に暴れるのか、またそれが症状という形で出現したとき、マリリンをどう苦しめるのか、今の時点ではすべてを予測することはできない。

けれども、暴れたければ暴れてごらんよ、という落ち着いた気持ちがどこかにある。

そりゃあ15歳、17歳、いやいや20歳まで生きてほしいという願望が、ないはずはない。

そりゃあ、どこも痛くなく、どこも不具合を起こさず、老衰で死んでほしいという願望が、ないはずはない。

この子の背骨を撫でさするたび、見えない過去がまぶたに映るのだから、なおさらだ。

これまでの分まで、この子には幸せであってほしい、と思う。

私たちの根っこを引き剥がせば、その狂気じみた生々しい願望が、たちまち目を光らせるであろう。

しかし、それほどまでに望みながらも、どこかでやはり、すべてを受容する静かな思いもあるのだ。

もともと、その犬生の半分は、苦しみの中を這っていたであろう子だ。

今こうして命があるだけで、十分じゃないか。

もしも身体が悪くなり、痛みを生じるのなら、病気を治すよりも、まずそれを取り除くための治療に専念すればいい。

幸い痛みが出ないのなら、可能な限りの治療をめざし、けれどこの子が安穏に楽しく生きられることを一番に、その道を探ればいい。

私たちの力が必要ならば、いくらでも使ってくれ。

マリリンが生きたいように、生きればいいのだから。



こうした障害を持つ犬との生活は、世の中において、なかなか理解されづらい。

身体的、精神的に消耗する部分は非常に大きいが、それでも多くの家族は、とても充実して、障害や、そこから派生する病気と向き合っている。

その日々が、どのように素晴らしく、どのようにしんどく、どのような思いで、この瞬間、瞬間を生きているのか。

犬との生活経験がなければ特に、理解できない生き方かもしれない。

おそらく、老犬介護と同種の分かりにくさをはらんでいる。



しばしば思いも寄らぬところから、冷水の如き言葉を浴び、さっと青ざめる思いをする。

そうして心臓がひりつくたび、分からないものを決して認めない、という人間の持つ性質をまざまざと見せつけられ、ぼう然としてしまう。

このブログでも折に触れて書いて来たことだが、分かり合う、理解し合う、といった観念はほとんど有り得ないものであり、はなから望んでもいない。

人間が思考を持ち合わせている限り、分かり合う世界など、絵空事であろう。

分からなくてもいい。

理解できなくてもいい。

けれど、相手が大事にしている思いを想像し、その価値観や生き方を、互いに“認め合う”ことはできる。

認め合うことさえできれば、世の中の悲しみの多くは消えてゆくだろう。

そう信じている。

残念ながら、人間の根元的な性質が、現実にはそれを難しくさせているわけだが、しかし一方で、マリリンとの生活については、それでもいいや、とも考えるのだ。

今の生活を、この生き方を、私たちは大事にしたい。

子どもひとり生み出さず、社会で働きもせず、障害を持つ犬にかかりきり、何の生産性もなく、社会貢献もしていないが、これが私の精いっぱいだ。

認められない生き方だとしても、それでいい。



常識人ぶったしたり顔に、乱暴されてなるものか。

この手に慈しみ守ってきた、繊細で濃密な彼女との生活を。

簡単に分かられてたまるものか。

この切なくも愛おしい日々を。



| つれづれ | 09:25 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

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