今日も明日も、マリリン日和

センター負傷棟から救出された雑種犬、マリリン。車いすを軽快に乗りこなすマリリンと、夫と、私。家族の日々の記録です。

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許すということ

雑誌『ダ・ヴィンチ』が、伊坂幸太郎特集で賑わっている。

新刊の刊行と『オー!ファーザー』の映画化記念で組まれたものらしい。

思わず「ひゃ~!!」と声をあげてしまったのは、平野啓一郎さんとの対談が掲載されていたからだ。



近年、平野さんが提唱する「分人」という考え方には、深く共感し、また私自身とても救われてきた部分がある。

混沌とした現代の中で、文学に何ができるかを、真摯に考え続けている人だ。

その平野さんと伊坂さんが、小説について、家族について、今の思いを語っていた。



デビューからして鮮烈であった平野さんだが、彼は、早くにお父様を亡くされており、たびたび父親という存在への強い思いを覗かせる。

今回の対談でも、そういった話が出ていた。

父親との距離感をどう埋めて、どう埋めずに、文学へと導くか。

家族を持ち、自身も父親になった今、作品とどのように向き合っているか。

その一端を拝見するだけで、胸の中にさまざまな思いがめぐってゆく。

エンタメ作家と純文学作家の交わりは、楽しくて心地良い刺激を残してくれた。



で。

それとは別に、伊坂幸太郎さんの読み切りが読みたくて、雑誌『パピルス』を買った。




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ショートストーリー『メイクアップ』は、化粧品会社に勤める“わたし”が、かつてのいじめっこと再会する話だ。

相手は自分に気づいておらず、現在の仕事の立場上、あの頃の復讐のチャンスが目前にある。

そのとき“わたし”は、どうするだろうか。



伊坂さんのユーモアあふれる言葉が散りばめられたその掌編を読みながら、以前書いた「自分を問われる」の記事を思い返していた。

あのとき私は、彼女に手を貸すことを躊躇してしまった自分を恥じ、マリリンの力を借りながら立ち上がることができた。

ただ、この場合、伊坂さんの物語における“わたし”の事情とは、少々異なる。

なぜなら、例の記事に登場した彼女は、いじめを行ってきたというわけではないからだ。

何と言うか、実に厄介な人物であることには違いなく、彼女の言動にずいぶん私は苦しみ、さらに決定的となる出来事が起こり、疎遠にはなっていたのだけれど、しかし、まぁ総じてそういう人物であった、というだけだ。

永年にわたって、また周囲を巻き込んで、彼女が陰湿ないじめを繰り返し行って来たであるとか、そういった事実はない。

つまり、いじめの加害者とは意味合いが異なるがために、一度はためらいこそすれ、最終的に私は、気持ち良く彼女のために動くことができたのだと思う。

これがもしも、小学生の頃、じっくりと止むことなく、まるでそれが唯一の仕事であるかのように、私をいじめ抜いた彼女だったら。

自分に矛先が向かぬための防御の手段であったとはとても考えられないほどに、嬉々として加担していた、彼女の取り巻きの誰かだったら。

どうだっただろうか――。

おそらく、困難に陥った彼女らに手を貸す場面が訪れたとき、私にはできないと思う。

それは、この先40代になろうとも、50代、60代になろうとも、多分ずっと。



夫と出会い、マリリンと出会い、今こうして穏やかな日々があるのだから、もうあの頃のことなんて全部許しちゃう。

そんな風に崇高な精神を持つことができたら、どれほど素晴らしいだろうかと思う。

そうできない自分を発見するたび、我が身がひどく忌々しい存在に思われ、いっそのこと、この世界から放逐してしまいたいという思いに駆られさえする。

けれど、内に潜んだ弱さや愚かさを恥じ入り、情けなさに身悶えしながらも、それでもなお、当時のことを丸ごと許すという境地に至るのは、とても難しい。

なぜなら、いじめの記憶は、“それを受けた当時”で終了するものではなく、“今”に至っても、根強く影響を与え続けるものだからだ。



大人ほどの防御の術を持たぬ、むき出しの柔らかな子どもの心に刻まれた傷は、想像よりも深いところに達しやすい。

それは、表面上きれいに修復されているように見え、実際本人もそのように思っていたとしても、さまざまな機会にひょっこり顔を出し、何年、何十年の時が経ったとは思えぬ生々しさで、痛みを再現してみせる。

その人の性格形成にも関与すれば、後々の対人関係にも大きな影響を及ぼし、至るところで心身に不具合を起こしてしまうのだ。

人によっては、生涯にわたって苦しみ続けることになるだろう。

一方で、加害者側の多くが、犯した罪を忘れ、いかにも清潔な子ども時代でした、とばかりに当時を懐かしんだりするというのだから、やりきれない。




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「あたしの過去も消えないけど、何とかここまで生きてきました」




精神を引きちぎられるようないじめを受けた人間が、世の中にはいる。

過去を乗り越え、むしろ逆にそれをバネにして、成功をおさめるような人もいるけれど、それはおそらく、ごく一部の方々であろう。

記憶をきれいさっぱり彼方へ投げ捨て、体内にその欠片も残っていないという人間は、そう多くはないのではなかろうか。

過去がもたらす影響に苦しみ、その傷を何とかなだめながら、地道に今を生きてゆかんとする人たちに、穏やかな瞬間が少しでも多く宿ることを願うばかりだ。



人間が人間を許す、という観念は、私にとって生きる上でのテーマのひとつであり、いじめのそれから始まって、苛酷な責苦を負う方々に対する思いへと拡がってゆく。

それについては、機会が訪れたら、今後の記事に綴りたいと思う。




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「あたしゃ、元気だよ! でも父ちゃん母ちゃんが油断したら、すぐさま具合悪くなってやろうと思います」



雑誌『パピルス』については、もう少し書きたいことがあるので、次回はこの続きを。



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